東京・多摩川河川敷の「六郷ゴルフクラブ」
相山武夫氏は横浜カントリークラブ開場の5年前の1953年(昭和28年)から、東京・大田区の多摩川河川敷に「六郷ゴルフクラブ(六郷ゴルフ倶楽部)」を経営していた。
自ら経営する日興産業の工場近く
ゴルフ場は、相山氏が創業した石油製品メーカー「日興産業」の工場のすぐ近くだった。打ちっぱなし(練習場)ではなく、18ホールのゴルフ場だった。
シングルの腕前
製造業の経営者だった相山氏が、ゴルフ場の経営に乗り出した理由は、趣味であるゴルフを上達するためだった。
相山氏は熱心なアマゴルファーだった。終戦直後には、千葉県「我孫子(あびこ)カントリークラブ・コース」復旧委員会の副委員を務めたこともあった。終戦直後はハンディ12か13だったが、やがてシングルになった。1日に3~4ラウンドまわっていたという。
増水被害
ゴルフ場(六郷ゴルフクラブ)の経営課題の一つ、芝の確保の問題があった。
芝の入手や管理は相当苦労したようだ。台風が来ると、芝生が台無しになることもあった。河川敷であるが故に、増水で芝をやられたのだ。
芝の争奪戦
当時の東京周辺では、芝の生産量自体が少なかった。多摩川周辺の3つのゴルフ場で芝の争奪戦が展開された。
芝の仕入れ元だった横浜・保土ケ谷区
関東の芝の生産地といえば、横浜市保土ケ谷区だった。芝づくりの草分け的な存在だった。それ以外には、東京郊外の小金井で栽培している程度であった。
相山氏は、芝の買い付けの陣頭指揮にあたっていた。このほか六郷ゴルフクラブのグリーンキーパーも、横浜・保土ケ谷区に足を運んでいた。
そんなある日、現地の芝の生産組合長からゴルフ場の開設を提案された。
天才実業家
相山氏は当時、30代後半だった。天才的な実業家である相山氏は、わずか数年のゴルフ場経営を通じて、ゴルフ開発やゴルフビジネスの知見を深めていた。また、ゴルフコースの設計者としてもプロへの道を歩み始めていた。実際、相山氏は後にゴルフ業界の帝王になる。
狸が出る雑木林
相山氏はさっそく現地の下見を行う。候補地は丘陵地帯。鎌倉街道をはさみ、南が相模の国、北が武蔵の国だった。大半は人跡未踏(じんせきみとう)の雑木林だった。昼間でさえムジナや狸が出るほどだった。小動物もかなりの数が棲息していた。
地質悪く、水脈なし
相山氏は候補地の土質の悪さや、水脈のないことなどを、すぐに見抜いたという。実際、大学へ依頼した調査でも水脈は発見されなかった。相模側の土質も、少し堀ると下は沖積層の土丹(ドタン)だった。
二俣川駅まで約4キロ
ただ、武蔵側の二俣川、梅の木谷戸周辺は肥えた土質だった。立木もあった。いずれにせよ周辺は未開発の状態であった。
人家は開拓農家が3軒ほどしかない。最も近い相模鉄道の二俣川駅まで約4キロの距離があった。「横浜のチベット」とも呼ばれていたという。
用地買収
1958年(昭和33年)夏、相山氏は用地取得にとりかかる。まず66万平方メートル(20万坪)を目標に用地取得に着手した。当初、36ホールのうち18ホールをパブリックに、残る18ホールをメンバーコースにする構想だった。
坪単価800円から1200円へ
買収価格は当初、坪(3.3平方メートル)800円から始めた。数年間に渉ったため、開場するころには坪1200円にもなった。交渉は難航した。
泊り込みで地主を説得
相山氏らは現地に作戦本部を設けた。1週間以上泊り込み、深夜まで地主を1軒1軒回って説得を重ねた。公民館や小学校などで説明会などを何度も開催した。それでも、了解を得るのは決して容易ではなかった。
農家の「先祖伝来の土地」
1950年代後半は、一般社会においてゴルフに対する認知度が低かった。「一部の金持ちのための道楽」というくらいの認識だった。そんな娯楽のために、祖先伝来の土地を手放すことは、農家の地主にとっては大きな不安材料だった。
しかし、地元の長老たちの応援もあって、次第に用地確保が進んだ。